■蕎麦を味わう(その4)

前回(その3)では、いろいろな干し蕎麦(そば)の断面構造を観察した。十割蕎麦では、球状の澱粉(デンプン)粒と、糊化したと思われる平坦な部分が入り混じった、いわゆる海島構造であった。このようにSEMで澱粉粒が良く見えることから、それを茹でたときに、糊化する様子が観察できるのではないかと考えた。この実験の素朴な動機は、美味しい蕎麦では、澱粉がどの程度糊化している状態かを知りたかった。手始めに、蕎麦粉だけで作ってある十割蕎麦で、その変化を観察する事を試みた。
用いた十割蕎麦の説明書には、適した茹で時間は6分と書いてあった。実験は、まず大きめの鍋にお湯を沸かし、一握りの十割蕎麦を入れた。再沸騰した後、1、2、4、6、8、10、12、20分と経過するごとに、茹でた蕎麦を数本づつ箸で取り出し、冷水の中に浸した(糊化を止める)。その後、キッチンペーパーの上に並べて自然乾燥させた。12分茹でると蕎麦は切れ始め、20分も茹でると、蕎麦は切れ切れ(2〜4cm)になった。

蕎麦は茹でると糊化(α化)するが、それを乾燥させると硬化(β化)する。その現象を老化と呼んでいるようである。本来ならば、出来立ての蕎麦をそのまま観察したいが、水分を含んだ蕎麦をSEM観察するのは難しいので、乾燥させた茹で蕎麦を手で折り、その断面を観察することにした。従って私たちが食べる、もり蕎麦そのものの状態は観察できないが、澱粉が茹で時間によって糊化する様子が観察できるのではと考えた。

まず、観察した茹で時間の異なる蕎麦の断面を光学顕微鏡(x20)で観察した結果を示す。
同じ条件の三本の蕎麦を観察して、だいたい同じ傾向である事を確認した。

茹で時間の異なる蕎麦の断面の光顕像
図1 茹で時間の異なる蕎麦の断面の光顕像


左上は、茹でる前の蕎麦で、前回観察したと同じ状態である。
左上から順に、茹で時間を増したときの蕎麦の変化を示す。
干し蕎麦の一本一本の形状は必ずしも同じでないので、定量的なことは言えないが、全体の傾向としては、茹でるほど周囲から透明度が増す事、断面形状は小さく丸くなることが分かった。周囲が透明になるのは、糊化によるものと考えられる。また茹でたての蕎麦では水分を含んで膨潤するため形状は増大するが、乾燥すると始めの状態より小さくなるのは、澱粉が糊化することにより隙間がなくなり、その結果体積が収縮したと考える。糊化した部分は乾燥するとかなり硬くなり、割るのが難しく、割れ口と反対側は均一の面にならなく、凹凸ができた。茹で時間4分、6分の画像でこの様子が明確に認められる。この報告では、割れ口は常に上になるように像を配置した。
また前回調べたように、断面中の茶色の像は甘皮がある部分であろう。

次に、この試料をSEM観察した。まず低倍で、断面全体を観察して比較した結果を示す。
画像の配置は、比較できるように図1と同じにした。

十割蕎麦の茹でる前の断面像 茹で時間2分の蕎麦断面
図2a 十割蕎麦の茹でる前の断面像 図2b 茹で時間2分の蕎麦断面


茹で時間4分の蕎麦断面 茹で時間6分(指定)の蕎麦断面
図2c 茹で時間4分の蕎麦断面 図2d 茹で時間6分(指定)の蕎麦断面


茹で時間8分の蕎麦断面 茹で時間12分の蕎麦断面
図2e 茹で時間8分の蕎麦断面 図2f 茹で時間12分の蕎麦断面


SEMでは、断面全体にピントがあっている鮮明な像が得られる。茹で時間によって断面形状が収縮していくようすがはっきりわかる。指定茹で時間6分では、厚さは、茹でる前の約80%に薄くなっている。一般にSEMでは凹部は黒く写るので、茹で蕎麦には空洞ができる事が分かる。また茹でるほど、断面の周辺から平坦になっている事が分かる。これは糊化によるものと考える。

次に、各条件の蕎麦の微細構造を拡大して観察した結果を示す。

茹でる前の平均的な断面像 3aの拡大像
図3a 茹でる前の平均的な断面像 図3b 3aの拡大像


図3は、茹でる前の蕎麦中央部の平均的な場所のSEM像である。拡大した図3bを見ると、澱粉(粒子構造)と糊化(平坦な灰色部分)した海島構造であることが分かる。これは、蕎麦を打つときに、何度も練り伸ばす作業により、蕎麦のたんぱく質や澱粉の一部が糊化して、ちょうどタイルの目地のような働きをして、繋ぎの役目をしていると考えられる。念入りな蕎麦打ちをした蕎麦は、この海島構造が緻密になっているのであろう。

茹でた蕎麦を光顕で見ると、周囲から透明になったが、それをSEMで観察したのが、図4と図5である。

茹で2分の側部像 4aの拡大像
図4a 茹で2分の側部像 図4b 4aの拡大像


外周は平坦な構造で、備長炭やガラスなどのように硬い物を割った面のようである。糊化した部分が乾燥により、硬化したと考えられる。図4は2分茹でた試料であるが、すでに約100μm幅の糊化層があることが分かった。その内部は、まだ粒々の澱粉が認められる。
文献によると、澱粉は約60度で糊化が始まる。茹でると、蕎麦の外周から温められるため、外周から糊化されたのだと分かる。

茹で6分の側部像 5aの強拡大像
図5a 茹で6分の側部像 図5b 5aの強拡大像


図5は6分茹でた蕎麦の周辺部で、糊化層が200μm以上と幅広くなっていた。強拡大すると、1μm程度の小さな孔が認められた。茹で時間が増すほど、乾燥した蕎麦は硬くなり、劈開するのに力を要した。

茹で時間が4分以内では、中央部には、澱粉粒子が残っていた。
図6は茹で時間2分の蕎麦の中央部を観察した結果である。

茹で2分の中央部 6aの拡大像
図6a 茹で2分の中央部 図6b 6aの拡大像


2分茹でた蕎麦の中央部は、茹でる前と同じような澱粉と糊化した部分との海島構造になっていた。この場所にはまだ熱はそれほど伝わっていなかったと考えられる。

茹で4分の中央部 7aの拡大像
図7a 茹で4分の中央部 図7b 7aの拡大像


茹で時間4分の中央部では、澱粉粒子が認められたが、中には図7のような澱粉粒と糊化した部分の間に、澱粉が少し軟化したような部分が認められた。すなわち澱粉粒子間が接着され、破断時に、粒子の間隙ではなく、粒子の内部で割れたと考えられる像が認められた。一部は、真ん中から割れたため、内部の空洞が認められる。

次に、澱粉がほとんど認められなくなった茹で時間6分の蕎麦を観察した結果を図8に示す。

茹で6分の中央部低倍像 8a上部拡大像
図8a 茹で6分の中央部低倍像 図8b 8a上部拡大像


図8は、中央部にわずかに残った澱粉粒子近傍を観察した結果である。図8aの中央下部に澱粉粒子が認められる。その上部には、図8bから8dの拡大像で示すように、澱粉粒が接着し、それが割れたと考えられる像が認められる。澱粉粒内部に孔が認められるが、これが温度によって生じたのか、茹でる前の澱粉にもあるのかは、今までの観察では断定できない。後日、茹でる前の澱粉粒の断面を観察したい。
図5bで、糊化した面の内部に1μm程度の孔が認められたが、これは図8bにさらに熱が加わって糊化したときに残った孔と考えられる。

8bの拡大像 8cの強拡大像
図8c 8bの拡大像 図8d 8cの強拡大像


図8dで、左上部は澱粉間に隙間があり、粒が接着されていない。しかし、右下部では、粒子が接着されたため、粒内で破断された様子が分かる。その破断面には粒子間の界面は認められなくなっている。

図8a中央下部の澱粉が残っている視野の拡大像を図8eと8fに示す。
図8fでは上部が糊化した部分、右下部が正常な澱粉であり、その間は軟化の界面部である。澱粉粒は密着し、粒内で割れている。

8a下部の拡大像 8eの拡大像
図8e 8a下部の拡大像 図8f 8eの拡大像


軟化領域で、大きな空洞がある部分に、興味深い像が認められた。4分茹での蕎麦の結果を示す。

茹で4分澱粉部低倍像 9a中央部の強拡大像
図9a 茹で4分澱粉部低倍像 図9b 9a中央部の強拡大像


図9bに示すように、隙間部に餅を伸ばしたような像が認められた。これは軟化して密着していた澱粉粒子間に、何かの力が働いて離されたとき、くっついた餅を引っ張るように糊が伸びたと考えられる。この様な像は2分、6分茹でた蕎麦にも認められた。

甘皮が混ざっている様子を観察すると、

茹で0分甘皮部 茹で12分甘皮部
図10 茹で0分甘皮部 図11 茹で12分甘皮部


図10は茹でる前の蕎麦断面に含まれている甘皮で、澱粉粒子の間に埋まっているのが分かる。図11は12分茹でた蕎麦の中に認められた甘皮で、糊化層の中に埋まっている様子が分かる。甘皮は12分茹でても、形状はほとんど変わらないようである。

次に現在までの観察では説明が難しい構造を示す。

茹で2分の左上部 12aの拡大像
図12a 茹で2分の左上部 図12b 12aの拡大像


2分茹でた蕎麦断面の左上部のかなり広い領域に、図12bで示すような構造があった。構造の複雑さから、胚芽でないかと思った。しかし、その領域はかなり広く、このような大きさの胚芽が蕎麦粉の中に含まれているか、あるいは凝集するのかが疑問であった。

澱粉がほとんど糊化した12分茹でた蕎麦の断面にも、広い領域にこの構造が認められた。

茹で12分の上部 13aの拡大像
図13a 茹で12分の上部 図13b 13aの拡大像


図13aは12分茹でた蕎麦断面上部の糊化領域との境を観察した像である。図13bに示すように、図12bと同じような胚芽と考えられる像が認められた。この構造は12分茹でても変化しない構造である事が分かった。

まとめとして、今まで観察した澱粉、糊化領域がそれぞれの蕎麦断面でどのように分布しているかを調べた。手順は、コンピューターのディスプレー左側に全体像を出し、右側に各部の拡大像を出して、どの構造に属すかを判断しながら、全体像上に色で塗りつぶした。 澱粉粒子が認められる領域には黄色を、糊化が進み、破断面が平坦な灰色に見える領域は青色で塗りつぶし、その中間の構造と判断した領域は塗らなかった。甘皮と判断できた像は紫色を塗り、図12,13で観察した胚芽に似た構造の領域は桃色の破線で囲った。なかなか骨の折れる作業であった。
その結果を次に示す。

茹で0分の分布図 茹で2分の分布図
図14a 茹で0分の分布図 図14b 茹で2分の分布図


茹で4分の分布図 茹で6分(指定)の分布図
図14c 茹で4分の分布図 図14d 茹で6分(指定)の分布図


茹で8分の分布図 茹で12分の分布図
図14e 茹で8分の分布図 図14f 茹で12分の分布図


色分けすることによって、いろいろな事が分かった。
茹でる前の蕎麦の断面(図14a)では、上部と下部は澱粉が多い領域であるが、中央部は澱粉と糊化部が混ざった海島構造が認められる。茹でた蕎麦では澱粉と糊化組織が、あんパン構造になり、茹で時間が増すほど、あん(澱粉)部が減少する事が分かった。指定の6分茹でた蕎麦ではほとんどが糊化し、中央にわずかに澱粉が残っていた。澱粉が僅かに残っているのが、食べたときに腰が強いという食感の原因となるのであろうか。

茹でる前の蕎麦には認められなかった胚芽と考えられる部分(桃色破線)は、茹でた蕎麦すべてに、しかもかなり広い領域を占めた。その上、その領域がいずれも上部の周辺にあるのが特徴であった。割れ口を上部に揃えた事を考慮すると、この部分の強度が糊化領域に比べて弱いため、折る時にそこから亀裂が入ったと考えられる。いずれにしても、このような広い領域に胚芽がどうして固まって存在するのか、または別の物質なのかが疑問として残る。これについては今後の課題としたい。

                                         −完−





タイニー・カフェテラス支配人 文ちゃん

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